2008年7月22日 (火)

毒棘(どくきょく)

 ハオコゼ(葉虎魚)やゴンズイ(権瑞)など鰭に毒の棘を持つ魚が、防波堤などので初心者にも以外に簡単に釣れてくる。親父は、釣りの上着のポケットに何時も「ニッパー」を持っていた。
 釣上げた魚の針を 外す時や活き〆する時に太刀魚の歯・鱸や鯛の鰓や鰭の棘で怪我をすることがある。鱸の鰓には、分かっているのだが背鰭の棘に気を取られていると、ヒッカケられてしまう。釣りを していれば良くあることだ。しかし、毒棘が刺さると、その毒による強烈な痛さで次回からは魚に触らずハリスを切ることを 選ぶようになる。私も海の生物には酷いめに遭わされた。
 カセでよく釣れたアイゴ(尾以外の鰭に多くの毒棘がある。)、夜釣りでの定番のゴンズイ(背鰭と胸鰭に3本のはっきりとした棘)、ミャク釣りでのハオコゼ(頭に付いている長い2本の棘が特徴で小さいだけに始末が悪い。)など危ない魚は、親父に扱い方を良く教わっていたはずなのに、全く違う方向からハオコゼの洗礼を受けた。それは、当時ミャク釣りに凝っていた親父と従兄の3人で日の出埠頭に行ったおりに親父の真似をしてミャク釣りをしていて従兄弟が釣り上げたハオコゼが、風に煽られて屈んでいた私のコメカミに当たった。余りの痛さで、うずくまってしまった私を 見て従兄が親父を呼んで来てくれた。親父は、まず刺さった箇所の血を吸い出した。傷口は小さいのだが、毒のせいなのか血が多く出たことを覚えている。刺さった場所が悪かったのかその後に歯痛や中耳炎のような痛さが続いたことを今でもよく覚えている。
 次は、高校の時で河口の波打ち際でサーフボードにうつ伏せに乗った時に、腹を剃刀で切られたような痛みが走った。慌ててボードから飛び降りたのだが、腹筋に力が入ってしまい背筋を伸ばすことが出来ない。もしも、あの時に足の着く場所でなければ多分、溺れていただろう。陸に揚がって見てみると幾筋ものミミズ腫れができて、その晩は、微熱が出た。後日、腹にくっきりと点々としたクラゲの姿を形どった瘡蓋ができた。生物の先生が私の腹を見て笑いながら「これは、明らかにアカクラゲだ」と言われ、恥ずかしくて、その年の夏はシャツを脱げなかった。
 これは、私ではないのだが、前浜に投網に行っていた親父が「エイにやられた」と言って帰ってきた。海底にいるエイを踏みつけて尻尾の棘に胴付きのゴム長靴の上から、やられたらしく、踝の少し上に2cmほどの傷があり、かなり痛そうだった。ゴム長にも5cmほどの鋭利な刃物で切られたような後があった。何故、棘が刺さったのではなく横に切れているのか疑問に思ったが、後年、船釣りでアカエイを釣上げた時に棘を立てて尻尾をグルグル振り回しているのを見て納得した。
 親父の時もそうだったが、傷の割には出血が多い。多分、蛋白毒のために毒性に溶血作用があるのではないだろうか。ならば傷から血液を吸いだすことは有効だろう。そして、蛋白質ならば変性をさせるのも有効で「患部を火傷をしない程度の高い温度の湯に漬ける」とよいと言われるのもそのためだろう。もう1つ、船頭さんに聞いた話なのだが虎魚などに刺されたら血を吸い出した後に、マッチに火を点けて、直ぐに吹き消して、そのジクを傷口に差し込むようにして焼いてしまうと言っていた。流石に海の男はやることが凄い。そして私には、とても実行する勇気がない。
 毒棘の文字を見ると体中に棘がある虫のような感じがするが、魚の場合は、ヒレに毒があるために、毒鰭棘(どくききょく)の方が分かりやすい気がする。

※参照:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アカクラゲ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2
※参照:WEB魚図鑑
ゴンズイ:http://fishing-forum.org/zukan/mashtml/M000337_1.htm
アイゴ:http://fishing-forum.org/zukan/mashtml/M000309_1.htm
ハオコゼ:http://fishing-forum.org/zukan/mashtml/M000041_1.htm

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2008年1月22日 (火)

水が抜ける

 親父には、贔屓していた初老の船頭さんがいた。自分から話しをする人ではなかったが、子供だった私の話も良く聞いてくれた。ある日に私が「何故、景色だけ見て何時も同じ場所に来れるの」と聞いた時に船頭さんが「そうだなぁ」と言って話してくれた。当たり前だが海の上には道路も無ければ建物も木も生えていない。現在のように緯度・経度を高精度で教えてくれるGPSなど無い時代では、「山立て」と言う方法を取る。それは、沖から目測で近い所の目標物と遠く目標物の重せ、それから自船まで正面から見たり肩口から見たりして延長線を引く。その線の数が多ければ多いほど海上での精度が上がりピンポイントになっていくために、何度も釣り糸を垂らしその付近を流し釣をすることになる。そして、水深と風景のデーターが増えていくと、水面下に等高線のような物(等深線)が意識できるようになり、海岸から、どんどん線が引けて、その線が増えて密になる。すると海岸線と水面の境界線が無くなり海面が引き始め海底が見えてくるそうである。そして50年以上に亘り、一本釣りの漁師として駿河湾の船上で漁をしていると、湾の底にある栓を抜いたように水が減っていく。仕舞いには自分の船が海上ではなくて釣り糸が届く何百mも上の宙に浮いているようになると言う。
 宙に浮くという感覚については、伊豆の磯でシュノーケリングなどをして遊んでいると、2・3mの浅瀬の岩場から急激な落ち込みの場所に出ることある、自分の身体に重力を感じないので、まるで崖の上から飛び出したような気になることがあり、浮かんでいるというよりも飛んでいる感覚があるので、なんとなく理解ができる。
 更に船頭さんは、谷間を吹く風のように潮流が翔け抜け、そこから見る海底には、落ちている岩まであるそうで、浅い場所には藻や海草が陸上の草木のように立って、時には飛び交う鳥のように魚が見えることもあると船頭さんは言っていた。もう、ここまで来ると現実離れして、まるで仙人と話をいているようだった。高校生だった私は「このじいさん、だいじょうぶかぁ」などど思って聞いていたものだ。
 しかし、自分も「燕」に乗り手前船頭で沖に出て見ると、あの時に「船頭さん」が言っていたことが「作り話」ではかったことに気づかされた。掛かり釣をしいてる時は、さほどでもないが、流し釣りなどしていると、道糸を通して海底の変化が良く伝わってくる。そして大きな駆け上がりや根掛がりなどする場所は、強く頭に刷り込まれるが平坦な所の窪みや「船頭さん」がよく言っていた「クソ石」(学校のグランドにポツリポツリとウンチが落ちているようで可笑しかった。)が見えてくるまでは、まだまだ 経験が必要だろう。 
 私の場合は海底地形図と魚探を使い、それを確認するように流して行くと比較的簡単に沖からの風景の中に水深の線が引けやすく、大まかではあるが海底地形図と実際の風景が重なり合ったイメージができた。それでも薩埵沖から駒越えまでの50mラインらしき物を1本引くのに5年掛かった。そして未だに1cmも水面が下がってはいない。GPSを駆使すれば、この様な作業は必要ではないかもしれないが、船頭さんが、遠くの景色を眺めながらピタリとポイント真上に止める姿に憧れる。

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2007年5月30日 (水)

カンテラ

現在では、夜に照らす物は懐中電灯が当たり前だが、昭和40年ごろは、まだカーバイドのカンテラが使われていた。
当時は、祭りの縁日や露店では、電燈が主流に成りつつあったが、屋台などはまだまだ、カーバイドランプが使われていて噴出ガスの音と炎の色が独特の雰囲気があった。
カンテラは2段構造になっていて、下部に缶から取り出したカーバイドを入れパッキンをして上部と蝶ネジで締め付けて固定をする。
Kkatera上部に水を入れ給水口にあるツマミを回すことによりネジが緩み水が下部に落ち始めるとカーバイドと反応してアセチレンガスがYの字になっている火口より「シュー」とした音を出し発生する。火をつけると左右のノズルから出る炎が当たり更に大きな炎になり、より一層に明るさを増し、光度も高く40~60ワット位はあったのではないかと思う。但し、炎は高温なので長時間、光度を上げていると火口が長持ちしない。
 カーバイドは粘土の固まりを砕いた様な物で手に摂ると粉っぽくて、ドブの臭いがした。コレは硫化水素の臭いなのだが、それを知ったのは中学生の時に遠足で箱根の大涌谷に行った際にカーバイドの臭いがする。子供心に「ここでカーバイドを掘り出しているんだ」と思ったものだ。
 夏の夜、家からカンテラを持ち出し、近所の悪ガキが集まり探検に出かけた。神社の境内・工場の跡地・材木置き場・防空壕など、日中、遊んでいる場所に、現在よりずっと暗い夜に行くと視界は光が届く範囲だけで、まるで別世界にいるようだった。ノズルの部分が小さな焼き物で、作られていて少しの衝撃でも割れてしまい、よく親父に叱られたものだ。
親父の夜釣りは、目が利く内に釣り座と準備を全て済ませるために、何時も夕方から始まる。浜で流れ着いた手ごろな枝などを3本拾い、短めの縄で括り3脚を作り浜に立てカンテラを吊るした。ある時に従兄弟が懐中電灯を持ってきた。サーチライトのような集光力で50mほど離れた場所まで光が届く、あの驚きは今でも、ハッキリと覚えている。
 日が落ちてカンテラを着火すると、懐中電灯と違い、広範囲を照らし釣り座を包んでくれる。そして時折、親父がカンテラを手に取りタバコに火を点ける仕草が妙に絵になっていて、大人への憧れを感じたものだ。

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2007年4月16日 (月)

チャカ

 チャカと言っても拳銃のことではない、カセを曳く伝馬船にエンジンを載せた物を親父達はそのように呼んでいた。40年前には浜から直接に漕ぎ出す地引網など櫓を使う船も存在していた。他所では言わないらしくネット上でも、ほんの少ししかヒットしないので、多分チャカとは限定された地域の呼び名ではないかと思う。小型の曳き船をそのように呼んでいたもの分からないが、私は機械のカチャカチャする音から来ているのではないかと思う。
 清水港でのダンコ釣りに使うカセ船を何艘もチャカに繋ぎ準備が整うと釣り船屋の親父さんがエンジンの始動に掛かる。何時もカセに乗り込んでいたので間じかに見た訳ではないがクランクレバーをまわして掛けていたような気がする。煙突からドーナツのような煙を出してタンタンと単発特有の軽快な音を出して起動する。巴川沿いにある釣り船屋からカセを曳いて港内まで少し下る。現在、巡航で20ノット以上出るボートに比べ5~6ノットで進むチャカの音が、早朝の静けさの中で両岸の壁に反射し心地よいリズムを刻んでいたことを今でも覚えている。
 港でのチャカの印象は軽金前の貝島沖で停泊中の材木貨物船から丸太を降ろして海上で筏に組んで小型動力船のチャカがそれを港最深部にある折戸の貯木場に引いていく、作業内容は曳き舟だが大型船のタグボートよりは、1・2回り小型だったように思える。清水港の材木事業は昭和初期の折戸・貯木場完成から本格的に行われていたことから、私が見ていた時には既に40年以上の作業工程の歴史があったことになる。その筏の上に乗り作業をしている光景は時代劇で見る木場の現代版の様な雰囲気があった。時には巴川を運河にして上流の製材所に丸太運びに行き来していた。

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2007年3月19日 (月)

船長と船頭さん

親父は月に一度はカセ釣りをしていた。
 気が向くと沖にも出ていたが乗り合いは性に合わず清水港からは何時も仕立ていた。それでも釣り新聞を見ていて清水以外の場所に行く時はまず乗り合いを使った。当時は良い座を得るには常連になるまで通いつめるか、手っ取り早く船長の機嫌を取って気に入られるようにする。船長も御山の大将気分でそれで良しとしていたので親父は、釣果は期待しなく沖合いの調子を見ることと地元の仕掛けやつり方を知るために利用していた。そして沖と相性和えば今度は本格的に仕立てて沖に出る。
 仕立て舟の船頭さんは初老の方が多く、魚探などに頼らず自分の経験だけで我々を導いてくれる。そして、乗り合い船は沖の釣り場に連れて行ってくれるが一本釣りの漁師さんの仕立て舟は仕事場に連れて行ってくれる。
 私が釣れなくてポイントを変えて欲しいなと思っていても船頭さんが次々釣上げると、場所が悪いのでなく自分の腕が悪いので何も言えなくなる。そして圧倒的な技術の差を思い知らされる。かと思えば釣り場に着いて一回落としただけで移動してしまう、これも長年の経験から豊富にポイントを持っている証拠だ。
 釣り場に着くと親父の場合は何か船頭さんと真剣勝負をしているように見えた。船頭さんは釣りの指南はしないが10代だった私は船頭さんの直ぐ横に座り何から何までシンクロさせるように真似をして釣りをしていたが別に邪魔だと言う顔もせずに時には私の仕種を待っていてくれた。腕の良い職人は、口下手で社交的でない人が多い。私の周りにはそのような人ばかりだったので、無口な船頭さんに違和感が無かった。
 親父曰く「常連になるまで何度も通う金額を考えるなら仕立てる方が気分も良いし必ず釣らせてくれる」と何時も言っていた。確かに仕立てでボウズで沖上がりした時はめったに無いが船頭さんが一生懸命に自分の知る限りのポイントに船を持って行ってくれるので不満はなかった。それに親父の頼む船頭さんは何時も自身が釣上げた魚を「土産」にと持たせてくれた。親父は乗り合い船は船長、仕立ての一本釣りの漁船は船頭さんと呼んで区別をしていた。

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2007年3月 9日 (金)

足ヒレ

 ある日、親父は大掛かりな仕掛けを作り始めた。それは全長300mで3ヒロごとにネムリ針を結んだ延縄だった。
出来上がると踵ベルト式ではなくシューズ型の本格的なスキューバの足ヒレ3足を私と従兄弟たちにと買って帰って来ると、喜んでいる私達を引き連れて夜の久能海岸へ、当時の海岸は今よりは大きな砂浜があり消波ブロックなど無く長い海岸があった。
 仕掛けを入れた桶を小さなビニール製のボートに乗せて親父が先頭になり3人がかりで、浜辺の流木で篝火を焚いている小父を目印に沖に向かって泳いで行く。50から70mほど出た所から潮流に乗ってムツ針に秋刀魚の短冊を「ちょん掛け」にして投入していく。当時、サーフボードがロングからショートに変わりつつあり、中学生だった私は、従兄弟たちと好く安倍川河口で大きい従兄弟の「お下がりのロングボード」をやっていたので沖に出ることに抵抗がなかった。
 夜の久能は草履クラスの「グチ」が多くいて食い気が立っている時は3割近くの確立で掛かった。一晩に何度も沖に出られれば良いが体力的に海の条件が、かなり良くないと2度は出来ない。
 昼間に南校前で釣行した時はカサゴやイトヨリ果ては海蛇まで多種の釣果があったが、海底の起伏の激しい場所は潮流が複雑で沖へ沖へ持って行かれて岸にたどり着いたのは駒越を過ぎて久能山に差し掛かったところだった。それ以降あそこでは釣行をしなかった。
安倍川河口の西で、夜に行った時にはゴンズイが鈴なりで殆んど飲み込んでいるので外し終わって家に帰ってきた時は夜が明けていたこともあった。
 確かに投げ釣りで300m飛ばすことはできないが、1度の釣行を5人がかりで15から20匹では、全員で竿を出してもその位の釣果ある。フグの猛攻にあったりしてメンテナンスが大変で、労力の割には満足のいく結果が出なかったので、この年ひと夏のことになってしまった。
30年以上前は、まだ魚影も濃く、こんなに大掛かりなことをしていても問題にならなかった時代だった。

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2007年2月22日 (木)

夜光虫

 風の無い静かな夏の夜に夜釣りに行くと波打ち際が青白く光る、投げ釣りの時には際が良く分かって安全に釣りが出来るが余り魚が釣れた思い出が無いが,幻想的に光る波を見ていると時間が経つのを忘れてしまう。ところで原生動物である彼等は、海面をトマト色に染めてしまうほどの生命力を持っているのに何のために身体を光らせるのだろう。
 20数年前、静岡県の西部に静波海岸と言うところがあり,そこに勝又川が流れている。川の西側なのか東側なのか忘れてしまったが浜に突堤があった。あの辺りは回りに光るものが無いので新月の夜は夜光虫の光がよくわかる。そのような時に突堤の先端で見ていると魚の動きに刺激をされて,真っ暗な中で魚の形まで分かるほど夜光虫が光る。時折、1m近くの大きな光が横切る。大きさから考えて鯔または鱸だと思い餌に海苔と泥鰌を持って毎晩、静波まで通ったことがある。実際に目に見えるので何としても姿を見たかったが竿釣りでは無理で、親父が投網を打った開いた網が夜光虫で花火のように綺麗だった。網に掛かったものは鱸だったが思ったより小さくフッコサイズだった。

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2007年1月30日 (火)

投網

 店のテレビ脇に全優勝者の房から自分の名前を前に出し、誇らしげに大会の優勝旗が飾られていたことを良く覚えている。 
 天候が良くない日には、親父はよく投網を編んでいた。竹で作った1寸のスケールを使って一目一目編んで行く,私が「網目をもっと小さくすれば鱚とか細長い魚が取れるのに」と聞くと父が「高速で泳ぐ魚を捕らえるのには網を大きく開かせる必要があるので網目を大きくしないといけない」と言っていた。
 投網は河口でをすることが多かった。浜辺に腰を下ろして波を見続けていると砕ける寸前の波が透けて見えるその中に縦に数本の鯔の影が見えるしばらくするとその中に黒く大きな影が横に走ると鯔の影が散るその様子が見えると,父は「よ~し」と言って投網の仕度をする,その横に走る影は鱸で親父は何時もそれを狙って網を打っていた。不思議なことに投網と書くのに網を投げるとは言わずに地元の仲間内では撃つと言っていたように思える。ほとんどが鯔だが時折,鱸が捕れるその中でも稀にメーターを越える物もある。
私も高校の時に浜で投網を撃つ練習をした。なかなか丸く開くことが出来ないでいると,最古参の投網仲間・・その当時の私にはお爺さんに見えたがその人が「投網は打つんじゃなく撃つんだ,捕りたい魚が3尺あれば3尺開けば良い,5尺あれば5尺開ければ十分だ。大事なことは,大きく丸く開くのではなく狙った獲物に網を掛けることだ。」と言った。その時は「当たり前ジャン」と思ったが今この歳になると,その人の言葉が,ある領域に達しなければ出ない言葉だと分かる。

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2006年12月22日 (金)

親父と海と思い出

バカが付くほどの釣り好きの父親だった。私の物心が付いたときには、かせ舟のござの上でダンゴを作って遊んでいたことを思い出す。自分で工夫をして作った仕掛けを試すことが好きだった親父は、乗り合い舟とは相性が悪く何時も仕立てていた。学生時代に私と姉に4級の免許を取らせて卒業後に自船で私達に船頭をさせて自分は釣三昧を企んでいた親父も私が卒業してまもなく46で私が25歳の時に他界してしまった。
 母もそうだが19歳の時に姉が生まれ父親になったためなのか傍目で見れば「あぶなかっかしい家族」と思われてのかも知れない。
 浜に投げ釣りに行った時に,まだ立ち上がることもできない赤ん坊だった姉を連れて行き子砂利を掘ってそこに姉を寝かし傘で日よけをしていた。さんざん釣りを楽しんで家の玄関で母の顔を見て姉を浜へ置き忘れたことに気づき大慌てで浜に行くと誰もいない浜で姉のはしゃいでいる声が聞こえた時は「ほっと」したそうだ。後々,母が「この人は釣った魚は忘れなかったが自分の娘を大浜に忘れてきた」とよく言っていた。
 両親は飲食店を経営して昼時を過ぎ2時から5時まで店を休憩にしていた。_01_1
40歳になるまでは投網が好きで学校帰りの私を連れて毎日のように前浜に海の様子を見に行っていた。波が良くて投網をし始めると,夏などは日が長いので午後5時を回ってしまい,常連のお客さんが前浜の浜辺まで呼びに来たことがあったことなどまるで笑い話だ。
 私たち兄弟も両親が自営をしていたので,親の帰りを待つと言うことはなく,逆に学校から帰ってくると両親が迎えてくれた。そして,常に一つ屋根の下で姉と自分,そして両親と4人で過ごしていた。親子でいられた時間は短っかたが父との思いでは尽きることがない。 
  山が嫌いなのではなく海が大好きだった。家族で旅行に行くのも山の中の温泉地へ行ったことは一度も無かった。なのでいまだに露天風呂からの風景は海,湯上りに山の幸は自分の中では一致しない。
 姉もそうだが自分もそんな父が大好きだった。

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