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2007年3月31日 (土)

静岡おでん

 最近、おでんが持てはやされている。081010_002oden
 鍋料理は、ご当地食材を使うので、長い歴史の中での地域性が出て面白いことから、学生時代にゼミの発表会で「御田」を取り上げたことがある。起源は、京都地方の「田楽」から来ていて室町時代まで遡ることができる。現在の田楽味噌は甘い、しかし室町の甘味は非常に高価で日常的に使われるものではなかったてめに、辛子味噌にしていた。調べを進めていると、古い順に串・昆布鰹出し・味噌・醤油・動物性出しになり、さらに高知に静岡と同じ串を刺した「おでん」があり辛子味噌を使うことを知った。その時に私の頭の中に高知県・土佐・静岡県・掛川・山内一豊が浮かび因果関係を追及したがついに答えは出なかったことを思い出す。
 静岡での「おでん」のダシは牛や鶏に魚の練り物を加わえ、それに醤油で味を調えることにより和風が強調されて、戦後の食生活に合わせた優れたものになった。逆に言えばこれだけの旨み成分が入っていれば、色々な食材を使っても美味しくなるのだが、私的には玉葱などの葱系を入れるとダシの性格上、洋風が強くなり醤油や砂糖を使わなければポトフなどの違う系統の料理になっていくような気がする。
 大正時代から続く「おでん」は、世間では静岡県の「おでん」と位置づけられているが、仲間内の三島や浜松の者に聞くと子供の時には市内で食しているような「おでん」はないようで食べ方もしていなかったそうで、突き詰めていくと静岡県中部に限定されてくる。
 昭和32年(1957)に第12回の静岡国体は、初めての聖火リレーがあったりして国民の関心も高く、安倍川の東海岸沿いにある大浜公園内の市営プールに全国の人が集まった。中部の人間にとって「おでん」への思いは、この国体時に大人か子供であったかで、大きく分かれる。当時子供だった三丁目の夕日世代の我等にとって「おでん」は冬だけの食べ物ではなく、大浜のプール遊びで冷えた身体で食べる「おでん」が美味しい。しかし、子供心にカキ氷も食べたい。結局、「おでん」とカキ氷がセットになってしまっている。大人になった現在でも、真夏の日のある内に食べる「おでん」には、冷えたビールよりもカキ氷の方が欲しくなる。 
 昔の静岡には「おでん」がいたるところにあって、町内に1軒はあったのではないか、青葉公園の屋台群・酒屋店の奥く・海やプールの脇に立ち並ぶ海の家・おやつ代わりに子供通う駄菓子屋・御握りや干瓢巻きなどがある軽食屋・たいがい、店の陳列ケースの奥に鍋が設置されていた。そして、小学生の頃に友達と駄菓子屋さんなので食べていると、何も付いていない串を掴んでしまう時がある。誰かが食べ終わった串を鍋に戻したのだ。慌てて鍋に戻そうとするのだが、そんな時に限って店のオバサンが見ている、仕方なく泣き泣き自分の皿に置くのだが・・・私達は、それを地雷と呼んでいた。今でも仲間が集まると、そんな昔の笑い話に華が咲く。これも、具が見えないほどの色の濃い静岡おでんならではの話だろう。それと私は「おでん」と共に当時燃料として使われていた練炭の匂いも思い出される
 今ではスーパーに駄菓子のコーナーが出来、コンビニの影響で酒屋さんや御握り屋さんが次々と無くなってしまったがそれも時代の流れだろう。

※静岡おでん 我が家のレシピ
http://go-go-swallow.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_5268.html

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2007年3月24日 (土)

清水発-01 07年03月23日 海へのご挨拶

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冷え込みも和らぎ最低気温が5度Cなり2007年の幕開け、070323_08kunou_sirasusen_1久能街道からは22日にシラス漁が解禁になったので所狭しとシラス舟が出ていた。イワシにとっても束の間の休息でした・・・。 午後からは風が強く吹く兆しが合ったので釣りは行わずに3ヶ月陸揚げしたままの「燕」を綺麗して点検を兼ねて三保の羽衣の松とその奥にある御穂神社に今シーズンの安全を海上よりお願いをした。070323_11miho_hagoromo_masu海岸では春休みとあって平日にも関わらず家族ずれが多く、すっかり春を感じさせられる。次回、直行できるように駒越中の水深50mから波勝崎に向けて水深90mの所にマークを入れて久能沖までのラインを引こうしたが南風が強くなりウサギが飛び始め、向かい波で走行がきつくなったので、ここで帰港。 

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2007年3月19日 (月)

船長と船頭さん

親父は月に一度はカセ釣りをしていた。
 気が向くと沖にも出ていたが乗り合いは性に合わず清水港からは何時も仕立ていた。それでも釣り新聞を見ていて清水以外の場所に行く時はまず乗り合いを使った。当時は良い座を得るには常連になるまで通いつめるか、手っ取り早く船長の機嫌を取って気に入られるようにする。船長も御山の大将気分でそれで良しとしていたので親父は、釣果は期待しなく沖合いの調子を見ることと地元の仕掛けやつり方を知るために利用していた。そして沖と相性和えば今度は本格的に仕立てて沖に出る。
 仕立て舟の船頭さんは初老の方が多く、魚探などに頼らず自分の経験だけで我々を導いてくれる。そして、乗り合い船は沖の釣り場に連れて行ってくれるが一本釣りの漁師さんの仕立て舟は仕事場に連れて行ってくれる。
 私が釣れなくてポイントを変えて欲しいなと思っていても船頭さんが次々釣上げると、場所が悪いのでなく自分の腕が悪いので何も言えなくなる。そして圧倒的な技術の差を思い知らされる。かと思えば釣り場に着いて一回落としただけで移動してしまう、これも長年の経験から豊富にポイントを持っている証拠だ。
 釣り場に着くと親父の場合は何か船頭さんと真剣勝負をしているように見えた。船頭さんは釣りの指南はしないが10代だった私は船頭さんの直ぐ横に座り何から何までシンクロさせるように真似をして釣りをしていたが別に邪魔だと言う顔もせずに時には私の仕種を待っていてくれた。腕の良い職人は、口下手で社交的でない人が多い。私の周りにはそのような人ばかりだったので、無口な船頭さんに違和感が無かった。
 親父曰く「常連になるまで何度も通う金額を考えるなら仕立てる方が気分も良いし必ず釣らせてくれる」と何時も言っていた。確かに仕立てでボウズで沖上がりした時はめったに無いが船頭さんが一生懸命に自分の知る限りのポイントに船を持って行ってくれるので不満はなかった。それに親父の頼む船頭さんは何時も自身が釣上げた魚を「土産」にと持たせてくれた。親父は乗り合い船は船長、仕立ての一本釣りの漁船は船頭さんと呼んで区別をしていた。

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2007年3月14日 (水)

今日の一行

07/06/29 (金)
070629takamatu_02 日が出て来て、日本海の低気圧に風が吹き込んだ・・・強南風(T_T)


07/06/22 (金)
070622降ったり・止んだり・風が吹いたり・・どっちかにしてくれ(-"-)・・・釣行中止

07/06/15 (金)
波長の短いウネリのために沖での船上作業に危険を感じ撤退・・・(T_T)
07/05/28 (月)070528masaki
ナライが、きつくて沖に出られず・・(T_T)

07/05/18 (金)
070518takamatu_nami_1 日ごろの行い? ・・・(T_T)


07/05/01 (火)
070426kairyu_02黒潮の蛇行・これって普通?・鰹が高い


07/04/23 (月)
駒越海岸へ偵察。赤潮の影響が消えぬのか、南高・駒越沖は1艇も出ていない。

07/04/15 (日)2007041421
低気圧の逆襲(-_-メ)ジャンジャーン

07/04/13 (金)
2007041309 流石に十三日の金曜日・マリーナに着いた途端に土砂降り(T_T)・・釣行中止

07/04/04(水)
2007040318 去年と同じ様に冬に逆戻りしていまった。

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学者のジレンマ  

昨今、フードファディストなる言葉を耳にする。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
つい最近も納豆について社会的に問題になった。
 栄養学者は食物が体内代謝でどのように関与してくるかを専門的に学び、その1つに数ある食材の中から、人々の健康や病気の予防につながる成分がある物を発表して食文化の向上を図る使命を負っている。
 メタボリックシンドロームやデドックスなど色々な流行語を生み、販売目的のために学者が成分名を並び立てるコメントを寄せて企業が製品を売る。当然、長所ばかりが強調されてしまう。それをメディアが取り上げるのだが、1時間程度の番組で紹介するのは全てのことを伝えるのには何所かに無理が生じる気がする。メディア側にしてみれば、自分の企画をしているものがブームの頂点を過ぎてしまえば高視聴率が取れないと言う脅迫観念に駆られて、つい勇み足になってしまうのだろう。情報のほんの少しの偏りがフードファディストを生んでしまう。この傾向は減量と言う言葉がカタカナの「ダイエット」に変えられた当たりから見受けられるようになった。
 1980年ごろに砂糖が槍玉に挙げられた。砂糖にはB1が存在していないために摂り過ぎるとカルシウムが減ることにより、凶暴性が増し当時よく言われた「キレる」につながった。近所の小母さんが「牛乳に砂糖を入れると身体に良くない」と言っているのを聞いた時には唖然とした。学者の言葉が風評で広がり最終的に砂糖と牛乳が「食べ合わせ」のようになってしまう。本来砂糖は、添加する物で嗜好性が高い。現在は、牛乳については再検討がなされているが、当時は優良な栄養食品で確固たる地位を保っていた。それ故に、そのようなうわさが広がっていくのだろう。牛乳にはカルシウムだけではなく、他にも優れた栄養素が数多く含まれているので、少しの砂糖で牛乳を摂取できるのであれば嗜好食品として、私はそちらを進める。
 2003年には、知り合いから粘りのあるヨーグルトを頂いた折に菌の増やし方を教わった。牛乳パックに3分の1のヨーグルトを入れ攪拌の後に容器を密閉しないで室温で醗酵させた後に冷蔵庫で寝かすそうで、培養に関する環境は問題外だ。さらに続けて消費期限は1ヶ月で粘りがなくなったら新しく粘りのある物を分けてもらうそうだ。得意げに話すその人の顔を見ていて私は怖くて口にする気がしなかった。乳酸菌は強力で漬物にも関わる物なので中毒などの大きな問題にならなかったのか。聞き伝えで進んで行くと伝言ゲームのようになり最初に行われた作り方とは大きく違うものになってしまっているのではないか。それにしても雑菌の混入が心配なので、ある程度、私なりに説明したのだがこれを食べていると長生きするそうで万能食品のように信じている人には聞き入れてもらえなかった。現在は市販品が出ているので安心なのだが、あの時は本当に事故が起きないか心配した。
 学者が火を点けてメディアが拡大し、そしてまた学者がその火を消しに掛かるなんとも矛盾したことだろう。

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2007年3月 9日 (金)

足ヒレ

 ある日、親父は大掛かりな仕掛けを作り始めた。それは全長300mで3ヒロごとにネムリ針を結んだ延縄だった。
出来上がると踵ベルト式ではなくシューズ型の本格的なスキューバの足ヒレ3足を私と従兄弟たちにと買って帰って来ると、喜んでいる私達を引き連れて夜の久能海岸へ、当時の海岸は今よりは大きな砂浜があり消波ブロックなど無く長い海岸があった。
 仕掛けを入れた桶を小さなビニール製のボートに乗せて親父が先頭になり3人がかりで、浜辺の流木で篝火を焚いている小父を目印に沖に向かって泳いで行く。50から70mほど出た所から潮流に乗ってムツ針に秋刀魚の短冊を「ちょん掛け」にして投入していく。当時、サーフボードがロングからショートに変わりつつあり、中学生だった私は、従兄弟たちと好く安倍川河口で大きい従兄弟の「お下がりのロングボード」をやっていたので沖に出ることに抵抗がなかった。
 夜の久能は草履クラスの「グチ」が多くいて食い気が立っている時は3割近くの確立で掛かった。一晩に何度も沖に出られれば良いが体力的に海の条件が、かなり良くないと2度は出来ない。
 昼間に南校前で釣行した時はカサゴやイトヨリ果ては海蛇まで多種の釣果があったが、海底の起伏の激しい場所は潮流が複雑で沖へ沖へ持って行かれて岸にたどり着いたのは駒越を過ぎて久能山に差し掛かったところだった。それ以降あそこでは釣行をしなかった。
安倍川河口の西で、夜に行った時にはゴンズイが鈴なりで殆んど飲み込んでいるので外し終わって家に帰ってきた時は夜が明けていたこともあった。
 確かに投げ釣りで300m飛ばすことはできないが、1度の釣行を5人がかりで15から20匹では、全員で竿を出してもその位の釣果ある。フグの猛攻にあったりしてメンテナンスが大変で、労力の割には満足のいく結果が出なかったので、この年ひと夏のことになってしまった。
30年以上前は、まだ魚影も濃く、こんなに大掛かりなことをしていても問題にならなかった時代だった。

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2007年3月 4日 (日)

(黒)はんぺんと白ハンペン

 東京での学生時代、先輩に連れられて飲み屋さんに行った時にカウンター越しのおでん鍋を見て驚いた、まず第一に串に刺さっていないその後、汁が澄んでいて具がみえる・粉がない・味噌がない、極めつけは「はんぺん」が無く、白ハンペンが浮いている。静岡中部では歯ごたえの無い白ハンペンは赤ん坊と病人の食べ物という位置づけがなされていた。今でもスーパーで年配の店員さんに「はんぺんは何処ですか」と聞けば迷わず黒はんぺんの場所を教えてくれるはずで、世間で言う「はんぺん」は白をつけなければ通じない。
 家康が食べたと言われる「はんぺん」の長い歴史の中で、揚げ物として天麩羅ではなくフライにできたことは和食だけに止まらず洋食にまで及ぶ食材になったことは革命的な出来事で、昭和時代には惣菜フライの定番だった。原料が鰯や鯖で安価と言うこともあり庶民レベルで伝えられて来たこともあり食材として静岡の食物史の一旦を担っていることは間違いない。年配者に「はんぺん」と聞けば、まず「おでん」と「フライ」と答えるだろう。三世代に経って静岡中部に住み暮らしている人間に、白ハンペンの食べ方及び具材としての料理を挙げさせても5つは出てこないと思う。その様な訳で日常において白ハンペンの料理が食卓に上がることはまずない。
 その時は、それでもまだ私は東京だけが上品な白ハンペンを食べているものだと思っていたが、後にそれが全く逆で全国的にハンペンは「白」で自分が今まで食べていたものは「焼津黒はんぺん」だと分かった時はガックリと落胆してしまった。それほど静岡食文化の中に深く携わっている。

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